改善する時間が無駄時間になる事があると思うのです

時間の上手な使い方についてふと思った事を書きたいと思います。

 

世の中はどんどん便利になるけど、暇にはならない

世の中はどんどん便利になっているはずなのに、今までと変わらず仕事は忙しいし、面倒な家事も残ったままなのです。昔よりも遥かに便利になって人は楽になったはずなのに、産み出されたはずの自由な時間は、どこに行ってしまったのでしょうか。

 
日本人のだけなのでしょうか、時間が余ってくると何か新しい仕事を作ってしまうように思えるのです。仕事や趣味を問わず経験済みの事であれば、未経験の事と比較して楽にクオリティをあげる(改善する)事ができます。クオリティが高くなれば(又は、上手になれば)成長したと感じて満足度も上がるため次々と改善していきます。一見すると良いサイクルに思えるのですが、よく言われる80%まで改善する事は比較的簡単で残りの20%を改善する事は非常に苦労する事になります。この20%まで改善しようとする事が新しい仕事を増やしているように思うのです。

趣味でも仕事でもそれなりのレベルに到達していても「私なんかまだまだですよ。」と謙遜しておきながら、とある話し合いでは有識者として参加する人がいます。クオリティなんてその人がいる環境の中で決まる事であって、上を見たら切りがないし、下を向いても切りがないという事なのではないでしょうか。

 

ハイエンドモデルなのかローエンドモデルなのか。

ローエンドモデルの世界でハイエンドモデルの真似事をした所で、それは他人から求められている事ではなく単なる自己満足です。真似事表現したのは全体のクオリティは上がっていないのに部分的にハイエンドになっている状態です。イメージするならば、エンジンだけ高性能な車であってもスポーツカーにはならないですよね。タイヤもボディーも総合的に改善しなければ性能は出ません。ハイエンドを目指すなら最初からハイエンド思考で設計しなければだめなんじゃないかと思うのです。そうなると、改善を続ける事がハイエンドへの近道なのか、新たに設計しなおす事がハイエンドへの近道なのか状況によって変わってくると思うのです。自分が置かれている環境、求められている結果、クオリティに合わせてやり方を変えていく必要が有るのではないでしょうか。

 

こう考えると、改善の罠に嵌っているように感じませんか。

改善を考える事が本当に良い事なのか、割り切って新しく設計しなおすべきなのか意識的に判断できているでしょうか。仕事も家事も時間対効果を判断した上でクオリティの上限を定めるべきだと思うのです。ダラダラ改善を唱えている人は無駄な仕事を増やしたいだけではないのかと考えてしまいます。改善と新たなアプローチは意識的に切り分けて時間を有効活用できるようにすべきだと思います。

 

自由になりすぎて不自由な気がする

生活が安定して時間が余るようになると色々な事を考える余力が出てきます。今まで誰も知らなかった差別や不条理が改善される事は望ましいと感じますが、そこまで改善する必要あるの?と感じる所まで厳しく指摘されるようになった気がします。結果として、自由になると同時に自由が無くなってしまい、物事が難しくなっているようにも感じますし、当たり前のレベルが上がってしまっているのではないかと感じるのです。常識の量が増え常識的に考えるべき事の範囲が広くなってしまったんじゃないかと。いろんな考え方を持つのは良いといいながら、いろんな事に気を使わなきゃならない。

 これだといつまで経っても、暇になりません。前は良かった事も今回はダメとなれば余分に考える必要が有りますし工夫する必要が出てきます。効率化して生まれた時間も新しい問題に対して使われる事になってしまいます。

 

時間の使い方 

時間は楽しく使う事が、一番なのは分かっているけど、常識に縛られると楽しい事を見つけるにも時間が必要になってしまう。自分が損したと思いたくないし、周囲からも批判されたくないからだろう。でも、石橋を叩いて渡るように楽しい事を見つけるなんて不可能でしょう。

 

もしかしたら

忙しく働いているのは、自分が楽しい事を考えるのが面倒だからかも知れないです。

 

 

時間とお金の関係は切っても切れないため無視して考える事はできないですが、一般人は必要以上のお金を稼ぐ必要は無いという事だと思います。きっと、楽しい事って時間潰しのテレビ鑑賞やスマホゲームの事じゃないと思うのです。素直にやりたいと思える事が楽しい事でしょう。反面、少し背伸びをしないとやりたい事は見つけられないのだと思います。現在の延長や改善の先には想像した未来しか待っていないのだから。立ち止まって、毎日を新しく始めなおしてみる事が必要だと思うのです。

 

 

 

おしまい。