自分の想像力と相手を理解する事の難しさ。

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最近、痛ましい事件が数多く発生しています。
まず犯人に対して考える事は、結果を想像できなかったのかという事です。

 

 

子供たちにも相手のことを考えて行動しようと言うのだけど、子供たちにはピント来ないようですが、それが正しい姿だと思ってしまう所もあります。それは、相手の事を考えると言っても、相手の考える事は決して分からないわけで、自分が考える相手の気持ちとは想像や仮定の結果でしかないからです。別の言い方をすると人を信じる事は自分の人に対する想像や仮定を信じる事でしかない事になります。

 

自分が若い頃はインターネットも普及していなかったから、想像力が発揮されていました。漠然としたイメージに対してあーでもないこうでもない、こうだったらいいなと様々な角度から考えていたと言えます。それは妄想に近いのかもしれないけど、それによって手に入れていないものを楽しむ事ができたように思うのです。それは実際にはやってはいけないことをやったらどうなってしまうのか、と言うことも想像する事も含まれていました。

今は想像力を育てる事が難しいです。TVもゲームも動画もそこに答えがあるから、人によって違うイメージを想像する事が出来なくなりました。一度見てしまえば違う事を想像するのは無理だと思います。分かりやすいからこそ、違う考えが出てこないのです。このような環境に慣れてしまうと、「自分の考えは他人も同じ考えだろう」と錯覚してしまうように思うのです。

今はいろいろな情報にあふれているから、最適なもの、効率的なものを正解としてそれ以外は邪道や情弱として扱われます。特に、みんなが言っている事については常に正しいものとして考えが作り出されてしまうように思います。

 

京アニの件は想像が暴走してしまって今回のような事件が発生してしまうところも人間の難しさだと思います。私には共感も理解も一ミリもできないですが犯人は真剣だったのでしょう。人は必ず分かり合えると言う人は、世界中のこういう犯罪者と分かり合える素質をもっていると思うだけど、やっぱり私とは分かり合えないので嘘つきだと思います。犯人は殺すつもりはなかったと言い、被害が大きくなると思ってなかったと言う。そして、自分は悪くないと語るように思います。しかし「俺の話を聞いてくれない、自分は悪くない。」と言われてもわかるわけが無いのです。

人を傷つけてはいけない。世界共通の人間世界で生きて行くには当たり前のルールも分かり合えない人たちと分かり合えるなんて幻想ですね。

 

お互いに分かり合えないことを、分かり合うしかない。というフミコフミオ氏の持論は、今の世の中を生きていくのに不可欠な事だと思います。日本人は相手の事を分かろうとしすぎていたんです。自分の観測範囲内は自分の想像力の及ぶ範囲で行動する人と関わっていきたいし、想像力が振り切れた人の犯罪に巻き込まれたくない。でも分かり合う事、分かったフリをする事が最善ではない世の中になってきている事も心に止めておきたいと思います。

 

おしまい。