嫌いなものを好きになるためには、何度もやってみるしかない

ポカポカとした春の気持ち良さのため、なんとなく気持ちが上向く季節である反面、新年度、新学期、フレッシュマンといった新しい気分になれる存在がちょっと邪魔くさく面倒くさく、ちょっとした悩みの種になりながら早くも四月が終わろうとしています。何かが変わるという事は自分の気持ちも変わっていくきっかけになりますね。

 

嫌いなものを嫌いと言える世の中

嫌いなものを好きになる必要があるかと言われれば、かなり多くの事に対してノーと言えるような気がします。違う言い方をするなら、世の中が「嫌いなものは嫌いなんじゃー」と言えるようになったのだと思います。それは「みんなが優しくなったから」ではなく、みんなが「他人に対して興味がなくなった」って事ではないだろうかと思います。

 

好きなものは好き。

好きで無いものはどうでも良い。

 

なんとなく寂しくもありますが、そう思えた方が生きやすいですよね。自分が興味を持てないことが難しいことなら、嫌いになるよりも興味を失うはずです。嫌いになるってことは、興味があるってことなのだから。

人間ってめんどうですね。

 

好きなもの、嫌いなものは直感できまる 

 自分の子供たちを見ていて思った事は、「どうでも良いことほど、よく覚えている!」ということです。好きでも嫌いでもないのだと思うのですが、なんかピン!ときたから頭のなかに残っているのでしょう。皆さんも子供のころのどーでも良いことを覚えていて、ふと、思い出したりしませんか?

 好きも嫌いも何か引っ掛かるものがあるのでしょう。言葉にならない感覚、イメージ、フレーズ。子供たちに「なんで嫌いなの?」と質問してみても、「なんとなく」としか返事はありません。もう少し粘って聞いた所で、一般的な嫌いな理由をいうだけです。(大人が聞くと、ほとんど理由になっていないことが多い。)

 

私の娘はなわとびが嫌いなのですが、理由はよくわかりません。でも、嫌いになるイメージを持ってしまったことはまちがいないと思います。けれど、それは大人が思うそれっぽい理由では無いのだろうと思います。大人であれば、なわとびの縄が当たって耳が痛くなったり、たくさん飛ばされて疲れた・・・といった自分の知っているデメリットを子供たちにも当てはめてしまいます。でも本当の所は、単純に面白くないという理由や自分だけが下手くそだからやりたくないとか言葉に出来ないモヤモヤがあるのだろうと思います。

 

嫌いの中心を探して小さくしよう

このような事は自分たちの仕事でも起こっているように思います。「あの仕事は細かくてメンドウだから嫌だ」とか「話についていけないから関わりたくない」とか。どうしてもやらなくてはならない仕事なのに好き嫌いで左右されるのは無駄が多いし時間を有効活用できない事にもつながります。こんな時、好き嫌いを決めた本当の理由は何だったのか振り返ってみるのが良いと思うのです。最初の出会いが悪くて、その仕事が実際よりもひどく嫌なものに見えている事は無いでしょうか。嫌な理由を紐解いていくと子供たちのように焼き付いてしまったイメージに囚われてしまっているような事もあると思うのです。焼き付いてしまったイメージを引きはがすのは簡単ではないのですが、何度もやっているうちに嫌い、だと思っていた部分を小さく纏めてしまい、残りの大半については好きでも嫌いでもないフラットな状態に持っていければ、嫌いなものでも少しは好きになれるように思います。

 

おしまい。