正解を求める難しさ

 

何か迷った時は常に正解を見つけたいと思うのですが、正解を決める事がとても難しい事だと感じたので考えてみました。

 

まずは正解の意味するところを考えてみます。

正しく解答すること。正しく解釈すること。また、その解答や解釈。「正解を出す」
結果的によかったと思われること。「傘を持って出たのは正解だった」 

正解(セイカイ)とは - コトバンク より

なるほど。辞書の内容で見ても自分が知っている内容とほとんど変わりません。ほとんどの人が同じ理解をしている事だと思います。

 

一つ目の内容については、試験が最もわかりやすいと思います。試験問題を与えた側が期待した答えを回答するという事だと思います。大半の場合、正解は明確に決まっており、それ以外は不正解です。疑問や問題などのクエスチョンに対して、合致する答えであるアンサーを提示する事でコミュニケーションが成立します。

 

ところが二つ目の内容は非常に判断が難しくないでしょうか。「結果的によかったと思われること。」という表現は私の中でなるほど!と思わされました。結果的によいという表現は非常に曖昧ですが、単純化して「自分が良かったと思えば」と置き換える事にします。

 

最良の結果と正解は一致しないかも

例えば、プロジェクトの方向性がまとまらない状況の中、管理者の鶴の一声で方針を決定したとすれば正解はあるでしょうか?

恐らく、この時点では正解はないと思います。「結果的によい事」が正解なのであれば、結果が出るまでは正解は出ていないという事になると思います。

その後、このプロジェクトが成功したならば、その選択は正解と言えるでしょうか。ほとんどの人は成功したなら、その選択は正解だと言うでしょう。つまり結果的に良かったのだから、正解だったという結論です。しかし、このような形で正解が決まってしまう事は、他の選択肢が不正解になる危険があります。勝てば官軍の論理です。もっと違った結果があったとしても、「これで良かった。この方針が正解だったんだ。」となってしまうのでは無いでしょうか。

もちろん試験問題の答えのように、誰の目から見ても明確な正解はありませんし、それぞれの立場に応じた正解が得られると思います。しかし、もっと良い結果になったかも知れない方針であっでも、ひとつの正解がきまったなら、それ以外は不正解とされる事に繋がります。

現実的に(私を含め)そこまで深く考える人はいないと思いますが、最も良い結果と正解は必ずしも一致しないという事になります。

 

組織にいても正解は自分で決める

 仕事上の話であれば、ある程度の割り切りは可能です。会社に雇われている身であれば、上の方針に従うのはサラリーマンの務め。それが嫌ならば会社から出ていけばいいわけで、自分の正解と会社の正解を天秤にかけながら仕事をこなす事になります。概ね会社が儲かれば正解、会社が損すれば不正解といった具合に。しかし、現実はそこまで単純ではなく、社員が会社のためと思って行動する事が、必ずしも正解ではなくなりました。会社の状況をよく見せるために行った行動により、存続が危ぶまれている会社もあります。判断を行う時にでは正解と思われたやり方でも、「結果的に良くなかったので不正解」となったわけです。個人的に良かれと思って行動する事が組織としての正解を導くとは限らず、正解が結果的に決まるという事は揺らがないからです。

 

宗教や国家に属する妄信や確信を持った人は、自分が起こした激しい活動が「結果的に良かった=正解」だと思わせたい。もちろん、はたから見れば全くもって結果的にも不正解なのに、本人は正解だと信じきっています。組織に属していると結果的に自分の正解なのか、組織が思う正解なのか曖昧になってはいないでしょうか。行動を起こす前に自分の正解と他人の正解は違うかも知れない、正解は一つに決められないことを考えて欲しいと切に願います。

 

 終わりに

正解ありきの考え方も危ういですし、正解が見えてからの思い込みも危ういと思うのです。人によって正解が異なることも考えておく必要があります。正解と不正解という言葉で判断を下し、不正解を切り捨てるのではなく、不正解が正解になる条件や考え方にも注意を払う必要があると思うのです。

 

 

おしまい。