幸せに鈍感、不幸に敏感

我ながら、無難な人生を歩んできたからなのか、「幸せに鈍感で、不幸に敏感」な気がしています。

 

良かった事、悪かった事

一日をとらえて、腹が立つという程の事はそれ程多くは無いのですが、小さい事で嫌な気持ちになる事は多かったと思います。バラバラと仕事が降ってきたり、会議の結末が不満だったり、すれ違う人にぶつかったり、混んでいる電車がシンドイと思ったり。自分が快適に過ごせなかった事の多くが嫌な気持ちになった事として記憶されています。きっと明日には忘れてしまうのですが、ネガティブな事象は簡単に列挙する事が出来ます。逆にうれしかった事を列挙しようと思うと、なかなか言葉になりません。一日元気でいられた事や、子供達と楽しく会話できた事、仕事が進んだ…と言ったひねり出した言葉は出てくるのですが、特別なイベントが無ければ「いつも通りだった」という感想で終わりになってしまいます。

 

当たり前の日常

新しく始めた事も、二日目になれば慣れ、1週間もすればいつも通りの当たり前になってしまうのではないでしょうか。当たり前になった事に対して感情を動かされる事はほとんどなく、「良い一日だった」とか「悪い一日だった」とか感じにくくなってしまうように思います。小さな事に対して心が動きすぎると疲れてしまうので、人間の心には慣れるという機能があるのだと思います。そして、リラックスしている状態とは心がフラットな状態なのだと思います。

 

不幸と幸せの累積

会社にいても、電車に乗っていても感じるのですが、他人に対する愚痴や悪口が数多く聞こえてくるという事。自分が幸せだったという話は、それ程多くは聞こえてこないという事。日本人だからなか、自分が幸せである事を話す機会ってあまりないですよね。私も自ら話をする事は、ほとんどありません。きっと聞いている側も面白くはないだろうと想像してしまうからです。失敗談や不幸話の方が会話のネタとしては盛り上がるだろうし、共感を得られやすいような気がしてしまう所があります。また、苦労話は相談事に繋がるので誰かに聞いて欲しいという事なのかもしれませんが、幸せ話は解決すべき問題は無いので良かったねと言われて話が完結してしまうという違いがありそうです。

もしかすると、不幸をネタに話をすることで更に記憶が強固になって、定着しているのでは無いでしょうか。悪い事なんてさっさと忘れてしえばいいのに。話のネタにしたいような不幸はある意味対した事ではないとも言えるのですが。

 

 犯罪を犯す人たちのなかに、ストレスが溜まっていてと理由付けされる場合があるのですが、幸せが溜まりすぎて善いことをしてしまったという話は聞きません。不幸は累積して強い原動力になるのに、幸せは累積しても徐々に消化されるだけなのだと思います。不幸に対して幸せが消化されているとイメージするとストレスが溜まってしまった人は幸せな事で相殺できなかったのだと言えると思います。不幸が攻撃ならば、幸せは防御。自分しか見えないの戦いなのだから。

 

 

苦労は必ずしも不幸ではない

苦労話は何度もリピートされます。「苦労した後、成功に終わった」という不幸と幸せをセットにした話は話のネタとして定番化ですが、何事もハッピーエンドなら、それまでの不幸が相殺され、良かったことがクローズアップされるという事です。つまり苦労が報われるという事なのです。

努力や苦労は報われるか不定なものなのですが、報われないと不幸だった、損をしたと思ってしまうのが人間なのだと思います。それならば、「転んでもただでは起きない」という気持ちが必要です。少しでも良かった事を見つけて不幸と幸せのバランスを保つ事ができれば苦労したことが不幸にはならないはずです。闇雲に頑張っても不幸のリスクを増やすだけだと認識すべきだと思います。

 

おわりに

私はポジティブな人間ではないので、幸せを感じにくいタチだと思います。だから、不幸だと思う事は累積していくなと思ったのです。幸せには鈍感だし、不幸には敏感だなと思いました。忙しい日々の中でも少し立ち止まって、不幸と幸せのせめぎあいに対する戦況に気づくことで、楽しく生きやすくなれるように思いました。幸せが負けそうなら、少しでも幸せな事に敏感になり、不幸な事に鈍感になれるように気をつける事ができるといいなと。

 

 

 

おしまい。