不幸の裏返しは幸福ではない気がした

またしても仕事が忙しくなって、心が亡くなってきました。

 

不幸な事とは何だろう

不幸だなと思う事は色々あると思います。

軽い不幸から

  • 朝、飲もうとしていたコーヒーをこぼしてしまった。
  • 走っていたら転んでしまって怪我をしてしまった。
  • 電車に乗り遅れてしまった。

重い不幸もあります

  • 車で事故を起こしてしまった。
  • 身内に不幸があった

私がやりたくない仕事がいくつか舞い込んできて、不幸だなと思った時に、不幸の裏返しは幸せ(幸福)なのだろうか?と疑問がわいたのでした。しかし私が頭に思い描いた不幸は裏返しても幸せには到達せず、裏返しは「いつも通りなら良かったのに。」という思いにしかなりませんでした。

 

不幸の裏返しは何だろう

取り返しのできない重い不幸があった場合を想像しても、それは変わりませんでした。「事故が起きなければ幸せだったのか?」と言う問いには、YESと答えるだろうと思います。けれど、事故を起こす前は「日常」でしかなかったはず。何かしらの不幸が訪れたタイミングで、頭の中では「日常は幸せ」にすり替わるのです。

不幸を基準から見た日常=幸福 が成り立つのではないかと。

 

日常が不幸の連続であれば、心がどこに向かうのかと言うと、あの世に向かってしまうのかなと思ってしまいます。そう思うと、普通に日常生活が送れると言うのは非常に幸せなんだ、と気に留めておく必要が有ると思いました。

 

幸福とは何だろう

 その反面、もっと幸せになりたい、自分のやりたい事をやりたいという幸福欲求に際限はなく、それこそ「日常が続く事が幸せ」という事に対してすら、日々、歳を取っていく中で日常は同じ形を保ってはいられないという現実があります。嫌な事を避け、なるべく穏やかに生きようとする事でさえ、幸せ欲求を満たしながら生きている事になるのではないでしょうか。

 

そうなると、「日常を超える幸せ」を叶えるというのは、相当なパワーが必要ですね。プロスポーツ選手や金メダリストが非日常的な幸せを掴んでいる事から幸せになるための素質や努力の仕方が一般人に比べたら全く違いますよね。「体を鍛える事=日常」になる事がスタートラインで、更に日常を超えた所に幸せがあるんだなと思うのです。

 

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まとめ

人の手ではどうしようもないラッキーやアンラッキーは存在すると思いますが、それ自体にも要因があります。宝くじが当選するためには、宝くじを買う必要が有るし、電車で事故に合うためには、電車に乗っている必要が有ります。そのように考えれば、人の手でできる不幸を避ける小さな努力(車に乗ったらスピードを出しすぎない、電車に乗る時は早めに出かける)や、幸せになるための小さな努力(なるべく体を動かす、人との挨拶を欠かさない)と積み重ねを「日常」とする事により「日常」のレベルが上がり幸福へ繋がる事なんだと思うのです。

 

結局、不幸を裏返しても日常に戻るだけ。日常が幸福になる努力を惜しんではいけないなと思ったのです。日常を奪うようなリスクはなるべく避けるようにして、自分の幸福を自問自答しながら努力をしていきたいと思います。

歳を取ると幸福なんて大層な言葉はいらないから、毎日が満足できる日々である事が一番大事だなと心から思うのです。

 

おしまい。