才能と才能の無駄遣い

才能が欲しい

才能に恵まれている人を見て羨ましいと思うし、自分もその才能を手に入れたいとも思う。でも、その才能をどのように活かしたいのかを持ち合わせていなければ、役に立たない。心無き才能は才能にはならないという当たり前の事なのですが。

 

才能を活かす事と才能の無駄遣い

時流に乗る人は自己プロデュースが得意で自分の才能を才能として評価しやすくする事に長けているのだと感じるのです。例えば野球選手は野球が得意です。細かく言うならば、打つのが得意なのか守るのが得意なのか。更にはきわどい場面に強いのか などなど、素人の私がちょっと考えただけでも色々な才能を作り出す事ができる気がするのです。乱暴に言ってしまえば、野球が得意というだけならば才能の無駄遣いになり、野球の〇〇が得意となれば、才能として開花するように思えるのです。〇〇がついているだけで、使い処がはっきりしますから出番も多くなるでしょう。〇〇がつかない場合、野球が得意の得意なレベルが他の人を圧倒するレベルまで保持している事が必要です。でもそれは野球が圧倒的に得意という事であり、〇〇=圧倒的という言葉が入るように思います。

才能があっても、〇〇がついていないだけで人の評価を得られなかったり、マネタイズできなければ才能の無駄遣いになってしまうと思うのです。例えにあげた野球選手でも、プロ野球選手は年俸を貰っているので才能の無駄遣いにはなりません。もし、プロでも通用しそうな身体能力と野球センスを持ち合わせている人が草野球を楽しんでいるのであれば、それは才能の無駄遣いと言われるように思えるのです。

 

本人が楽しければそれでいい という事は間違いありません。楽しんだもの勝ちなのです。でも、才能を持っているのは自分で、評価するのは他人なのだという事。才能を活かす事は他人に対して影響を与える事だと考えるのであれば、自分が持っている才能が人に影響を与えられないのであれば才能とは言えないのかも知れません。真面目に勉強する事も色々な事を知っている事も他人から見て才能として形になると思うのです。

 

才能を与える

とあるカリスマが書いた本を読んでいて、ふと思った事は、カリスマが書けば言葉に深い意味が生まれるし、カリスマではない人が書けばチラ裏書になるだろうという事。同様の事はネット上でも散々言われている事なのだけど。

 

自己啓発系の本の内容は「実践あるのみ」に集約されると思います。

「私の教えを信じて実践してみなさい。そうすれば未来は変えれる。」

という宗教染みた内容なのだと思うのです。この感覚を得る事はとても簡単で、自分が胡散臭いなという自己啓発本を手に取り、パラパラと眺めるだけで十分です。自分が信じられない人が言っている事はインチキだと思うし、インチキを正しい事として説明されると宗教に勧誘されるのと同じ気持ちになれると思います。

 

才能の無い私が、何かしらの才能を得たいと思い自己啓発系の本を読んだり、著名な方の記事を読んで頷いたりしているのですが、この読み方ではだめなんだな…と感じたのです。それは、信者として読むかパートナーとして読むかの違いです。

 

才能は与えられない

 何かを得ようと思って情報を得たとしても、知っている事は才能にはなりません。知っている事を加工して初めて自分の才能の種となり種を育てて大きな木を作っていく事になるのだと思います。恐らく信者でいるうちは種が大きく育つことは無いのだと思います。何の栄養が必要なのか、何の病気にかかっているのか・・・すべて教祖の教えに従う必要が有るからです。それが全て大きな木に育つというのであれば、何人もの教祖がいて然るべきでしょう。教祖はやっぱり一人なんですよ。パートナーの言葉として受け止められるのであれば、その種は自分のオリジナリティを発揮する事で枯れてしまう可能性はありますが、大事に育てる事で別の大きな木となる可能性があります。それは他人からの評価を得られず才能まで開花しないものかも知れないですが自分で選択した事であれば満足度は高くなり差別化できると思います。才能は人から与えられるものではないという事なのだと思います。

 

 おわりに

「自分にはこんな才能がある」 と強く言える人は多くないと思いますが、それを言わなければ才能の無駄遣いで終わるだろうし、才能として表面化しないのではないかと思います。狭い世界(例えば社内)でしか通用しない自分の才能があったとして、社内で評価され、お金になっているのであれば、その狭い世界での才能と言ってしまって良いように思います。世の中に自分より才能のある人は無限にいると言ってしまえばそれまでですし、外部の人はそれを評価できないので外部の評価を気にする事は無いでしょう。しかし、誰を相手にして生きていくかーという事にではないでしょうか。会社が安泰で会社と家の往復だけで生きていくのであれば、その才能も立派な才能なのでしょう。会社での立ち回りという才能を伸ばしていけばいい。でも、会社から離れる可能性が少しでもあるならば、大きな社会の一員としての才能が必要であるのならば、自分が社会から評価される方法ー才能ーを考えておかなければならないのだと思います。

自分が得意な事が才能の無駄遣いにならないように、人に評価される事が何かを正しく整理しておく事、他人から才能を貰う事は出来ないのだから自分で育てる必要が有るという事。

 

才能がある人は羨ましい。

そう思う気持ちが自分の才能を陰らせているかも知れませんね。

 

おしまい。