どうせなら不自由な時間を使うなら家族と一緒に

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年末年始の休暇が終わります・・・。

年始に遊びに来た親戚(と、その子供たち)の相手をするのは楽しさもありますが、非日常は生きる上での最適化が行われていないので疲労が蓄積します。泊りがけで行楽地に行ったような、休みなんだけど休みじゃなかったみたいな疲労感です。


つくづく私は休暇の取り方が下手だと思います。
皆さんも、そんな感じなんですかね。

 

休みが終われば生きるため、お金のために仕事へ行かねばなりません。
心と体を日常という生きるために最適化された状態へ戻す必要があります。長い休みであればあるほどこの作業が苦痛でしかたがないので、細切れの休みを多くとれると良いのに・・・と思うのです。

長期連休の後に毎回思う事。

「一年のうち好きなタイミングで長期連休が取れると良いな。」です。

親戚同士の家が離れているため、帰省ラッシュに揉まれながら誰かの家に集合するスタイルを取っているのですが、どこかの家に行くなら伊豆とか観光地にするのもよくね?という話になりました。

・家の掃除やら後片付けやら面倒な事が増える。
(大掃除をしっかりやれという話もあるが、家事を金で解決できる。)

・単純な移動だけではもったいない。
(観光地や温泉に移動する方が旅行を兼ねられるので無駄がない。)

やっぱり時間や手間はお金で買う方が良いと思います。だって休日ですよ・・・。もしお金で買えないなら、集まらないでじっと家にこもった方がマシなんじゃね?くらいの気持ちにはなります。

その反面、そもそも集まる必要があるのだろうか?と悩むこともあります。
常々、正月は寒くて、道は渋滞して、物価は高くて・・・といった、幾重にも重なる苦難を抱えているわけでデメリットの塊です。
唯一のメリットは大人も子供も休みを合わせやすいという事だけです。(正月に働いている方々、ご苦労様です。)仮に突拍子もないタイミングで一週間も休みを取っていたら近所で噂される可能性だってあります。

しいて言えば学校は夏休みがあるので夏休みが調整しやすいという事はあると思います。それでも社会人的にはお盆休みに当ててくるわけで、これまた正月と同じような問題にぶちあたります。

 

人生の自由度が低い

親戚一同が集まるというイベントを年越しやお盆に合わせる事しかできないのは、人生の自由度の低さを感じます。リタイアしてじーじとばーばになれば自由になるかと言えばそういう訳でもありません。親戚一同が集まるには集まるメンバー全員が自由でなければならないからです。もし自分だけ自由になっても、周りと合わせているのであれば誰かの不自由に引っ張られるわけです。

インフルエンサーの方々が言われるように、非効率なイベントはやめる事が自分の自由につながる事は分かりますが、そうやって得られた自由を別のもっと意味のある事に使えるようにできなければ、もっと不自由だと思うのです。見たくもないテレビをみて時間を浪費する・・・それこそ不自由じゃないでしょうか。

私はこうやってダラダラと時間浪費しながら生きていくと思います。(もっと、やりたい事を見つけられたら変わるかも知れませんが。)だから、不自由な与えられたイベントであってもできるだけ参加していこうと思うのです。

おしまい。