日常を忘れる日

日常を意識する

毎日、同じことの繰り返しなんてうんざりだ!

くるくるネズミの回し車のように、同じところでつらい思いを走り続けているような感覚に息が詰まるのだと思う。もちろん誰に言われなくても頭ではわかってる。同じ日なんて無いって事は。
でも、似たような事を毎日続けると、たいていの事はルーチン化される。やり方がうまくなるし効率的になる。やっぱり人間って良くできてる。無駄な事を省いて楽をしようとするわけだからね。そうなると、本能的に日常は最適化されて、そのルーチンを変える事にパワーが必要になってしまうわけだ。香取慎吾さんが大河ドラマの撮影で「毎日、同じ場所に行くのがサラリーマンみたいで耐えられなかった」みたいな事を言っていたので、常に刺激を求めてるクリエイティブな人にはルーチン化していく事が耐え難い苦痛なのだろう。きっと刺激的な日々でドーパミンでまくりに違いない。

私は平日は同じ時間に起きて、朝食を取り、会社へ向かう。たとえテレワークだとしても、それはほとんど変わらない。働くために同じ行動をとるのは大きな差はないので、単純に場所の問題という事でもない。ルーチン化が成功して楽ができるようになった頃、感情はそのルーチンに飽きる仕組みになっていて、何とも人間は厄介だなと思う。なれたら、飽きるの繰り返しを原動力にして人類は絶滅せずに進化したのかな。

 

日常は働く事になっている

働いた分だけ給料を貰うのは当たり前のように感じる。本当は一生懸命でも怠けていてもある程度は保証してくれる。保証してくれるからこそ、同じことの繰り返しでもつづけられる。いや、つづけるしかなくなる。サボると給料を貰えなくなるのは困るからね。感情は、なれて飽きたとしても理性で続けられる。

会社とはいい制度だけど、飼われている感じはぬぐえない。例えるなら動物園。餌を貰える理由が客よせの道具だと知らなくても餌を貰えるのだから。私は用意された餌を加工はするけど自分で獲ってくるわけではない。狩りは苦手だから加工する方を選んだのだけど。

野生動物は狩りが成功した時、アドレナリンが出てるんだろうと思う。狩りを止めたら死んじゃうからね。狩りの必要が無くなった人間は、狩りの感覚の代わりを求めているようにも思う。何かに挑戦するって事がそれにあたるんじゃないかな。
時間どおりに餌が用意される動物園は幸せなのか?と問われたら、各々の性格によるとしか言えない。檻の中の動物たちがみんな外に出たいわけじゃない。飼われている事を楽だと思うやつもいるに違いないから。生き物は安定を選ぶ奴と挑戦を選ぶ奴がいるからすぐに絶滅しないようになっているんじゃないかな。アドレナリンが出なくても生きていく事はできる。残念ながら生きていけてもつらくなってしまう人はそれなりにいるから、人間は厄介で難しい。

 

よく考えると時間で成果が決まる職業は案外少ない。
農業とか漁業とか計画はできても時間では決まらない。芸能人もYouTuberも動画作成に費やした時間が成果ではない。ホワイトカラーも大半は資料を作る事が成果じゃなく資料が使われて金に繋がる事が成果だし。そうは言っても会社員は成果を出せと言われ続けるけど、成果を出せなくても給料が保証されるんだからかなり気楽。その代わりに時間拘束されていると考えてしまうと、保証のために自由を失っているなぁとも思える。


働く事が自分にとって狩りにあたるのか、食事にあたるのか。
狩りだと感じられる人は日常が楽しく生きられるように思う。

 

日常をやめる。いちにちだけ。

日々を変えたくないのに、誰かが変えてくれる事を待ってるからしんどくなる。変えてくれる人なんていなくて自分が変えるしかないとわかっているからこそ。
自分で変えたら責任を取らなきゃいけないからね。狩りに失敗する日が続いたらそれこそ生きてはいけなくなるから。

日常を変えることはできなくても一日を変えることはできるはず。いつもとは逆向きの電車に乗って、今日は休みますと会社に連絡するだけ。でも、それができないんだよな。日常の魔力と言うかルーチンの奴隷と言うか。でも、計画してみたい。実行できなくても計画するだけで考えが変わるような気がするから。

ひとりで小旅行。何も事件は起こらない。
普段着に着替えて遠くの映画館に行って映画を見る。それだけでも365日のうちの1日は日常じゃない日に変わるはずだ。

 

おしまい。