相手の気持ちを考えてどうなるか?

相手の気持ちより自分の体験で考える

小学校高学年になった子供に対して、誰かに迷惑をかけた時は「相手の気持ちを考えなさい」なーんて言ってました。あまりに普通だから。でも、何にもかわらないんですよ。自分の事もまともに考えられないのに、相手の事とか無理ですわ。
なので、「相手の気持ちはいいから、何が起こるか考えてみて」と表現を変えて見ました。これで伝わるかといえばそうでもないですが、「相手の気持ちを考える」というエスパー的な要素じゃなく、「先生に怒られる」とか「相手が泣く」とか「文句を言う」見たいな目に見える反応を想像した方がマシだなと思いました。

 

「青信号で横断歩道を渡ったらどうなる?」って話で、普通だと青はわたれ!ってなっちゃうけど、信号無視の車が来たらはねられてしまう。だから、青信号は渡れって事じゃなくて、注意して渡ろうと教えないといけない。ルールを守っても守らなくても何が起こるかを考えれば、自分の行動って変えられるように思うのです。

 

反応された経験がないと、相手の感じ方はわからない

子供に対しては意思疎通ができるようになったら直ぐ、「やっていい事」と「やってはいけない事」を教えるようになります。保育園に入る頃にはお友達を叩いたらだめだよと。「叩かれた方が痛い、嫌な気持ちになる とか 自分も叩かれたらいやだよね」みたいな説明をするけど理性で考えれると思いますか?きっと考えて理解するわけじゃなく、叩いたら泣いたという事象を経験したり、隣で眺めたりする事で反応ができるようになるだけだと思います。猫の子や犬の子だって同じですよね。嚙みすぎて反撃されたら加減を知るようになりますから。嚙んだ事と反撃された事が経験として繋がって加減するようになるのでしょう。

となると、ジャイアンはずっと反撃されないのでずっと分からないという事になりそうですが、ジャイアンのママからは怒られているでしょうから、経験値がゼロという事はなさそうです。

 

「相手のことを考えろ」という批判は意味がない

「相手の気持ちも考えろ」なんて軽く使うフレーズになってます。まぁ、多くの場合、私のキモチを考えろって事になってて、あなたの感想ですよね?みたいな不毛な議論感じになりますけど。

「〇〇な人の気持ちも考えてください!人の気持ちがわからないんですか?」みたいな発言は何となく変だなと思うわけです。当事者じゃない人が当事者を代弁するような発言を装っていますが、「ケチを付ける人の気持ちを代弁してる」だけに感じます。架空の誰かですらなく「ケチをつけたい自分の気持ち」を代弁しているような。

私が不快だから、みんなも不快でしょう?という感じのヤツです。

 

相手の気持ちを考えるなら、もっと深く相手の事を知る必要があるし、自分にその人の気持ちを素直に受け入れるの器がないと・・・。第三者が言えるのは可能性を示すこと精一杯なんじゃないかな。

自分が思う事なら割と簡単に想像できるんですよ。叩かれたり、叱られたり、けんかしたり。自分の経験値があれば何が起こるかわかるはず。自分ならどうかと考えた方が、まだマシなんですよ。それをせずに相手の気持ちを考えたところで意味がない。

 

お気持ちと世論はズレたところにある

大物政治家がやっちゃうセクハラ発言とかは、相手の事を考えていると思うんですよ「きっと喜んでくれるだろう」ってね。だから、先は地獄しかないでしょうね。「自分の考える相手の気持ちと世論は違う」という所まで分けて考えられないから炎上案件になっちゃう。でも、近くにいた人たちがそれを理解させる行動を起こさなかった、起こせなかったことがダメだったって事だと思うのです。子犬のケンカのようにやりすぎたら噛まれまっせって教えてあげないと。都合よく相手の気持ちを想像しても何の役にも立たないどころか害にしかならない。世の中の話に耳を傾けたら、ちょっとは理解できるとは思いますけど、まぁ、爺さんには難しいかな。

とは言え、シチュエーションによっては誰にでも当てはまる事ではあると思うんですよね。仲間内では問題なかったなんて話は良く聞きますよね。

 

 

人の事を思いやれないなんて、なんか冷たいよな・・・と思ったりもしたのですが、勝手に想像して決めつける方がよほど冷たいんじゃないかな?

よほど仲良くなるまで、特定の相手の気持ちを想像する必要なんか無くて一般的に想定される気持ちだけ考えておけばいいのでしょう。可もなく不可もなくお互いにちょうど良い距離感になるでしょうから。

 

おしまい。