タダはただの幻想

(Bruno /GermanyによるPixabayからの画像)

 

高齢者の母親

遠くて近い実家に久しぶりに行ってきた。
もう後期高齢者に近い年齢ではあるけれど、まだ元気。
明日も元気なのかと言うとそうでもない危うさはある。
自分も歳をとってきて、まだまだ生きていられるという気持ちは失ってしまったんだよなぁ。まだまだ死なないとは思うけど。

 

子供たちを見れば生きているという感じがするし、親を見るとまだ死なないだろうと感じる。正直、いつ死ぬかなんてわからないけれど。

 

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後期高齢者の保険料が上がるらしい。

平均でいくら上がるとか言うのは、余裕のある人から多めに取っていこうという事であれば必要な事だと思う。全体の40%と言ってるから多くの人は対象になる。
今は私の扶養に入っているから大丈夫だけど、後期高齢者医療保険に入ると本人が保険料を払う事になるので重荷が増す。私が払うから私の負担が増えるのだけどね…。

 

タダというのは、ただの幻想

テレビが無料で見れるのは広告を出している会社がお金を払っているからだけど、消費者としてはタダで見れるものとしか思わない。でも、広告が出ているその商品には広告費の一部が転嫁されているわけで、広告の商品を買ったなら広告費の一部を払っていると言えなくもない。要は完全にタダってわけじゃない。

 

時間は有限だしエネルギーもタダではない。お茶を飲むためにお湯を沸かす動作がタダになってもガスや電気の料金はタダにはならない。生きているだけでお金はかかるし自分でやればタダというのは自家消費しているだけと言えなくもない。

私の子供たちは小学生に対する医療費助成のおかげで子供が医者にかかってもタダになるのだけど、それは市の財政から税金を支出しているわけで。もちろん私の払った税金から補填されている部分もあるけれど、見知らぬ誰かが納めた税金も使われている。

税金で補填してもらえる事に対して、タダになるという表現をしてしまうけれど、自分がタダになって誰かの金を使っているだけだと感謝はしていたい。

善意とルールの狭間

善意の制度は悪意によって制限が厳しくなり、本当に必要な人に対してサービスが行き届かなくなる場合がある。

タダになるならじゃんじゃん病院に行こうという老人。
本人はタダだからと言って薬を山ほど出してくる医者。
それほど悪気はなくてルールに従っているだけなのだ。でもタダをムダに変換している時点で悪人になっている。山ほど貰っているその薬の代金は、あなたの隣に座っている方の払った税金から補填してますよって言ったら、老人と医者はどんな顔をするのだろうか。

どうやっても全員が平等なんて事はなくて、不平等をいかに不平等と思わせないかというのが政治のお役目になっている。今にも死にそうになりながらちゃんと納税している人と、株で儲けた泡銭を納税している人では平等ではないように思える。でも税金という面においては稼いだ手段は関係ない。むしろア〇ウ〇イだって違法スレスレの事をやって儲けた金も(正しく計上されていれば)納税されているわけで、そんな税金を自分には使ってほしくないという人はきっといないだろうと思う。

 

未来のために

この先は、うまくお金を稼げる人に税金も保険料も多く払ってもらって、うまく稼げない人は無駄に税金を使わないようにする以外に逃げ道が無い。
そして小市民の自分にできる事の一つは健康で働き続ける事だと思う。長く働いて納税をするけれど、病院には行かず医療費はかからない。年金も65歳まで払い込みが必要になるみたいだし、それって税金払いながらでちょっとクラクラするけどね。それが日本の未来。みんなが健康で働き続ける事が日本の未来のためになるなら、多少は頑張るしかないよね。未来の子供たちのためにも。

 

おしまい。