今日をつかまえる

 

親戚の集まりに顔を出した。

心地よいとは言えないけれど、落ち着かないわけでもないなんとも言えない空間を共有する。密度は低くても長く続いた関係性は気持ちの余裕を作ってくれる。

親の世代もかなり年を取ったから、余計なことを言わない。そろそろ達観したのだろうね。子供扱いするようなセリフは忘れてしまったように出てこない。まぁ50が見えてきた子供に対して口出しする言葉も無いからだろう。なにしろこれまで良い距離感を保てているのは幸運なのだと思う。

 

親密な関係でなければ前向きな話のウケが良い。だから、ちゃんとした大人たちは自然とそういう話をする。そりゃ大勢の前で個人的な悩みを話しても沈黙しか生まれないし、何しろこっ恥ずかしい。歳を取れば多少なりともプライドは持ってるからね。話を聞く側もへぇ~とか、ほぉ~と言える話の方がありがたくもある。相槌のバリエーションが広い方がリアクションも楽だ。

 

ただ、近況の話が盛り上がった時、心がザワついてしまう。だれかが自慢げに楽しく生きている話題が聞こえると、自分には話せるネタも無くてちょっとした緊張を感じる。それは脇役が出番を待っているような気持ちと表現したら良いか。つまらない役をやっている自分の話はウケないだろうなと。縛りを作ってるのは自分で、他人は他人なのに。なぜかそう思う。

 

きっと自分が楽しく生きて無いから、仕事が忙しいとかつまらないってネガティブな話しか思いつかなくて、ことさら劣等感を感じるのかな。そんなふうに思う必要は無いと頭では分かってるんだけど、自分の人生を生きている、ちゃんと話ができる人たちの集まりだとやはり居心地が悪い。あぁ、この歳になってもちゃんとした大人になれてないのかなって。

 

私は身の回りの狭い範囲でしか他人を観測できてないから、いろんな生き方に対して自分勝手な優劣を決めているのかな、と思う。お金持ちになったとか、地元で有名になったとかではなく、自分の仕事に誇りを持っていたり、自分の趣味を生き生き語ったりする姿に憧れているのだと。それは無いものねだりをする幼さのようなものか。

 

自分の人生を丁寧に生きていないという事なのかな。楽しくない事が起きないように楽しい事も制限してる。明日の仕事が心配だから残業するし、寝不足にならないように早寝をしてる。新しい事は疲れるからやらない、波風立てるくらいなら自分がなんとかする。ローリスク・ローリターン。省エネ生活。気を使う毎日。

 

もうドラマチックはいらない。今日が昨日と違うと思えたら。同じ時間に起きて同じ時間に会社に向ったとしても、見方が変われば今日は変わる。自分で少しの変化作れば良いのだけど、その少しが難しい。自分だけが認識する変化。いつも買う缶コーヒーの銘柄を変える・・・たったそんな所から始めてみようかな。

 

世の中は大きく変化してるのに標準化、定型化してる。矛盾しているけど、流行りにのる事は定型化の始まりで、流行りを楽しむ事が変化なのだと思う。それが今日を生きるって事なのかなとも思う。新しい事に流されるんじゃなくて、試してみる。使われるんじゃなくて、使ってみる。そんな感じ。

 

今日をつかまえる。気が付かないまま昨日になってしまう今日の事をちゃんと覚えておくようにしよう。ネットの記事じゃない、自分の記事を残そう。きっと自分のためになると思うから。

 

おしまい。