他人の日常を眺めること

他人の日常を眺める。

バズらないだろうたわいもない投稿をぼんやりと眺めている。ツイッターで垣間見える、ささいな日常の風景。綺麗に咲いた紫陽花の花に共感し、幼い子供たちと公園に出かけて疲れ果てた姿に応援し、不思議な工作を見て感心する。他人の日常なんて、本当はどうでもいい事なのに。でも、他人の日常を楽しめる自分は、きっと自分の日常も楽しめるはずなんだと思えてくる。

メンタルが落ち込んでいなくても、世界が、社会、地域が、会社が悪い方向に向かう空気感だけで、日常が緩やかに押しつぶされそうな閉塞感を感じる。それでも明日も明後日も一週間後も一か月後もやってくるに違いない。

それでも日常を楽しむ事ができれば何とかやっていけるはず。

 

頭を使ってツマラナイ事に対応する日常

会社では嫌な事も引き受けなくちゃいけない。最終責任が無いとはいえ、金(工数)にまつわる交渉事はいつもチリチリするので歳を取っても慣れたりしない。「割りに合わないんで、その仕事受けません。」って簡単に言えたら良いのだけど。

ハッキリとNGの理由を言っても、どうすればOKになるか条件を教えてくれと言われるだけだから最初からそのつもりで頭を働かせる事になる。と、分かってしまっているから、頭出しの段階から落しどころをワザと仕込んでおく見たいなツマラナイ事に頭を働かせるようになっていく・・・。それはどこでも重要なスキルだったりするわけでね。

ツマラナイ・クダラナイという感覚は、やりがいを持てるかどうかに関係しています。

やりがいを持てる=自分も重要だと思うし、会社も重要だと考えている。
やりがいを持てない=自分は重要だと思わないが、会社は重要だと考えている。

こういうズレって結構多くないですか?
やりがいをもって働こう!って言われても、最初からすれ違っているわけで。会社の立場に近い(労働者じゃなく雇用者がわ)立場で考えられる人は出世していくのだろうけれど、仕事ができる事とは直接関係ないし、表面上しか噛み合ってないと不幸になりがち。出世したら急にツカエナイって言われる人いますよね。

 

ツマラナイ事が多くてもいつも通り生きていく

ツマラナ日常が続く事を嘆く必要は無いし、日常が続くという事が良かったなと思えるように気楽に過ごせる事がいちばん良いなと思う。ツイッターで見かける日常はいつも違っていて同じ日は無い。なのに、自分の毎日は同じ事の繰り返しだと感じてしまう。きっと繰り返しという事にておく方が、頭を使わないから精神的に楽なのだろう。会社でサボっていても給料は上がらないし、会社に反論するくらいなら転職した方が良い。やりがいが無かったとしても、やりがいを持っているように見せた方が良い。心を砕くくらいなら繰り返しの日常の方が楽で生きやすい。

 

逆に他人の日常を眺めて、自分の今日を振り返っている。たわいもない事を心に止め、つらい事に愚痴をこぼしている人の姿から自分の日常を思い出し切り取っている。気が付いたら一週間過ぎていた、一か月過ぎていた…今年ももう半分終わっていた。そんな事を繰り返す40代。何かに残すような日常は無いと思い込んでいるけれど自分にも同じように切り取っておくべき今日があるのだろう。繰り返しじゃなく自分の今日を見つけながら過ごして行こう。人生ももう折り返し地点は過ぎているのだから。

 

 

おしまい。